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ブログ HITOGATA   in Otaru       by摩耶

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2015年 04月 14日

保存されなかった浦上天主堂

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 爆心地から500メートルしか離れていなかった浦上天主堂も壊滅的な被害を受けました。信者12000人のうち、8500人が爆死。双塔を持つ東洋一の壮大な天主堂でしたが、わずか側壁を残しただけで全て崩れ落ちしまいました。
現在の建物は1959年(昭和34年)鉄筋コンクリート造りで再建され、1990年(昭和55年)ローマ教皇の訪日の慶事を記念して外装を原爆被災前の天主堂のように赤煉瓦造り、窓を全部ステンドグラスにするなど往時の姿に復元されたものです。しかし残念ながらこの日は閉館日で見学出来ませんでした。



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 爆心地に近かった浦上天主堂の廃墟は原爆の威力と悲惨さを物語る長崎の原爆遺跡となる可能性がありました。広島の原爆ドーム同様、平和祈念のシンボルとして永久保存しようとする被爆者と市民の声は高かったのですが、残念ながら再建優先の考えから取り壊されてしまいました。そういえば長崎に原爆被害の象徴という建物が思い当たりません。遺構より物語るものはないのではないでしょうか。様々な事情があったのですが、もし保存されていたら原爆ドームのような貴重な世界遺産になったのに残念です。


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 天主堂の正面左手庭に原爆で破壊された聖人の石像が並んでいました。どれも熱戦で黒く焦げ、頭、鼻、指などが欠けた姿が痛々しいです。
中央はイエスキリスト像のようでしたが、顔が崩れてありません。


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 天主堂から少し川側に歩くと見えたので近づいてみると、「浦上天主堂 鐘楼ドーム」と表示板が出ていました。双塔のうち、左塔の鐘楼ドーム、直径5.5メートル、重さ50トンもあるのですが、なんと35メートル離れたこの川まで吹き飛んだのでした。


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ドームが川の流れをふさいでしまうので戦後に撤去が計画されましたが、あまりの重さに断念し川を移設したそうです。「こんなに大きなものが吹き飛ぶなんて・・・。」原爆の威力と凄まじさをまざまざと感じたのでした。










# by Blog_Maya | 2015-04-14 22:34 | 旅行
2015年 04月 09日

「如己愛人」 永井隆博士



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                                   永井隆記念館


 原爆資料館で初めて知った永井隆博士、島根県生まれの彼は医者を目指し長崎医科大学に入学し、卒業後は放射線医学で結核を研究していました。一日に何百人ものレントゲン写真を撮るという無理が重なり、慢性骨髄性白血病にかかり、余命3年と診断されましたが、治療と研究を続けていました。その2ヶ月後長崎に原子爆弾が落とされ、爆心地から700メートルの長崎大学病院で被爆、右側頭動脈切断という大怪我を負いましたが頭に布を巻き、生き残った看護婦とともに救護活動に当たりました。投下された爆弾が原子爆弾だと知ったのは翌日米軍が投下したビラを読んでからのことでした。ようやく自宅に戻ることが出来たのは原爆投下から三日後、家の焼け跡で灰の中から奥様の骨をロザリオとともに見つけ出したそうです。不幸中の幸い、二人のお子さんは三日前に市内の祖母の家に疎開していて無事でした。

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                                          如己(にょこ)堂

 失意のなか懸命に救護活動に当たっていた永井博士でしたが、2ヶ月後とうとう倒れます。昏睡状態に陥るものの奇跡的に助かった博士は原爆の被害報告書を書き、講義を再開しました。しかし病気は博士の身体を確実に蝕んでいき、翌1946年(昭和21年)末には寝たきりの生活を余儀なくされます。この状態でも「腕や指はまだ動く。自分には書くことができるではないか」と、博士は前向きでした。そんな博士の病室兼書斎として1948年(昭和23年)浦上カトリック信者たちの厚意により建てられた畳わずか2畳の家が完成しました。博士の寝台の他1畳しかない庵のような建物なのですが、永井氏がもう社会に尽くすことのできない身を恥じて小さな部屋を望んだそうです。その家は「如己堂」、聖書マタイの福音書の一節「汝の近き者を己の如く愛すべし」を博士が座右の銘としていたことから名付けられました。そこで原爆病の論文と「長崎の鐘」「この子を残して」「ロザリオの鎖」「原子雲の下に生きて」など17冊の著書を書き上げ、戦争の愚かさを訴えました。そして著作で得た収入の大半を長崎市復興再建のために寄付、また浦上の地を再び花咲く町にしようと小中学校、高校、浦上天主堂に桜の苗木1000本余りを寄贈。また両親兄弟を奪われた子供達の心を豊かにしようと小さな図書館「うちらの本箱」を設けました。しかし1951年(昭和26年)ついに病状が悪化し二人の子供と多くの人に見守られながら43才の若さで亡くなり、遺言により勤務先の長崎大学病院で献体解剖されました。

 残された二人のお子さん(当時17才だった誠一さん、11才の茅乃さん)の事が心残りだったに違いありません。書いた本が次々とベストセラーになり、映画化されるなど「浦上の聖者」と脚光を浴びたことで中傷されることも多かったのです。「長崎もので儲ける」「代作者がいるに違いない」「金儲け目当ての偽善者」、事実と反することが雑誌で報道されました。心ない者が二人のお子さんに「寝たきりで金儲けするものもらいの子」と吐き捨て、泣いて帰宅したこともあったそうです。しかし二人とも崇高な精神を持った言動をしていた父親をしっかり見て成長していました。博士の死後、誠一さんは時事通信に記者として入社、定年退職後永井隆記念館館長を務め、父の伝記「永井隆」も著しました。また茅乃さんは教師退職後「娘よ、ここが長崎です」という著書を出したり、講演などで原爆の悲惨さを訴えていたそうです。共著の本もあり、お二人とも遺志をしっかりと受け継いでらっしゃいました。





# by Blog_Maya | 2015-04-09 13:44 | 旅行
2015年 04月 06日

冥福と祈りの空間    平和公園


 原爆投下中心地より道路を挟んで約100メートル北側にある小高い丘にある平和公園は、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界平和への願いを込めてつくられた公園です。この場所は原爆投下される前は長崎刑務所浦上刑務支所でした。原子爆弾のさく裂で高さ4メートルもの鉄筋コンクリートの塀が根元から倒壊し、庁舎は全焼。被爆時刑務所内には職員18人、官舎住居者35人、受刑者および被告人81人の計134人いましたが、全員即死だったそうです。


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                                                                  平和の泉



 一方体内まで焼けただれた被爆者たちは「水を、水を」とうめき叫びながら死んでいったそうです。
昭和44年、その痛ましい霊に水を捧げて冥福を祈り、公園の入り口入ってすぐの場所に直径18メートルの泉を設けました。

                 「のどが乾いてたまりませんでした 
                  水にはあぶらのようなものが
                         一面に浮いていました 
                  どうしても水か欲しくて 
                  とうとうあぶらの浮いたまま飲みました」

 と、被爆した少女の水を求めてさまよった手記が正面に刻まれていて、胸が締め付けられます。

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                                      平和祈念像


昭和30年建立の平和祈念像、長崎出身の彫刻家北山西望氏制作。青銅製、高さ9.7メートル、重さ30トン。
天を指した右手は「原爆の脅威」を、水平に伸ばした左手は「平和」と、軽く閉じた瞼は「原爆犠牲者の冥福を祈る」という想いを込め、この像を神の愛と仏の慈悲を象徴としたとあります。

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                                                           折鶴の塔

毎年8月9日の原爆の日を「ながさき平和の日」と定め、平和記念式典が行われ、原爆で亡くなられた犠牲者の冥福を祈るとともに、長崎市長の平和宣言で核廃絶と平和のメッセージを長崎から世界へと発信しています。2000年からテレビでも全国放送されるようになったのでご存知の方も多いと思います。その時だけでもと黙祷させていただいているのですが、この日は合わせる手に力が入りました。







# by Blog_Maya | 2015-04-06 09:31 | 旅行
2015年 04月 04日

悲しみの原点 グランド・ゼロ



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昭和20年(1945年)8月9日11時2分、アメリカのB29爆撃機から投下されたプルトニウム原子爆弾(ファットマン)は長崎市街中心から約3キロメートル外れた松山町171番地の上空約500メートルで炸裂しました。爆心地付近で4000度、一キロ離れていても1800度の熱戦と爆風、そして放射能がばらまかれた中心地。写真だと分かりづらいですが、中央奥に落下中心地標柱として黒御影の碑が立っています。


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原爆の爆風で爆心地周辺は焼け野原になり、ほとんどの樹木は焼き尽くされましたが、今ではすっかり緑に囲まれ、私が訪れたときは春の清掃活動の真っ最中でした。公園の周囲にも約500本の桜が植えられ、まだちょっと早かったですが、桜の季節は花見が出来る憩いの空間となっているそうです。犬の散歩で来られている市民も見受けられ、のどかな公園でした。

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しかし遠く離れた反対側にはこんな案内板があり、下を見ると



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ここも清掃中でしたが、「そちらに見に行っていいですか?」と尋ねるとOKしてくださいました。

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ガラス越しなので反射してしまったのですが、文字通り被爆当時の地層が残されています。家の瓦や煉瓦、溶けたガラス瓶、食器の割れた物、靴らしきもの・・・、これらが大量に今も埋没しているのが分かりました。原爆が投下される直前まであった普通の日常が一瞬で奪われたことを物語っています。この後原爆資料館も訪れ、さらに詳しい資料を目にしました。原爆が投下された11時2分をさす柱時計、折れ曲がった中学校の給水タンク、信者のロザリオ、割れた瓦など瞬時にがれきと化した遺構が展示されていました。松山町だけでも約300世帯が住んでいて、犠牲者の数は死者7万3884人、負傷者7万4909人とありました。家、家族、学校、街を一瞬で失った、犠牲者は全員です。この地層も当時の悲惨な惨状を伝える遺構の一つなのでした。










# by Blog_Maya | 2015-04-04 09:03 | 旅行
2015年 04月 02日

石橋のルーツ 眼鏡橋

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古き長崎の面影を残す景観に中島川にかかる石橋が数多くあります。その中でも本格的石橋として日本最古のアーチ式眼鏡橋は有名。長崎行きを決めた時、真っ先に頭が浮かんだのがこの眼鏡橋でした。ガイドブックには「路面電車「公会堂前」下車、徒歩8分」とあったのですが、電車の停留所で地元の方に「賑橋の方が近いですよ。」と教えていただき下車、徒歩1分。川面に映った影が双円を描くことから「眼鏡橋」と呼ばれるようになりました。1960年に国の重要文化財に指定されています。



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                                                    黙子如定の像


橋の長さは22メートル、幅3.65メートル、川底までの高さは5.46メートル。1934年(寛永11年)興福寺の二代目住職 唐僧黙子如定(もくすにょじょう)が参拝者のために建立。中国明朝式石橋という当時の最新技術が導入され、以後石橋技術の模範とされ全国に影響を与えました。1648年(慶安元年)の洪水で損壊するものの石工平戸好夢(ひらとこうむ)が修復しました。その後は高欄に修復の形跡があるものの流出することなく度重なる水害に耐えてきたそうです。


石橋のルーツ 眼鏡橋_d0110197_21532670.jpg



しかし1982年(昭和57年)の長崎水害の時、中島川の橋が流失、眼鏡橋は流失は免れたのの、半分程損壊するという深刻な被害を受けました。修復のための部分解体で江戸の物と見られる階段が左岸橋端から見つかったため、スロープとなっていた橋端は階段へと変更しました。橋端はは1873年(明治6年~人力車通行のため階段をなくしたらしいのですが、1948年(昭和28年)以降石積みの緩みが目立ってきたため、車両の通行が禁止されたまま現在に至っています。







# by Blog_Maya | 2015-04-02 12:43 | 旅行