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ブログ HITOGATA   in Otaru       by摩耶

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2015年 04月 26日

250年ぶりの信徒発見  浦上天主堂

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 長崎の出島での中国、朝鮮、オランダとの貿易を除いて200年以上鎖国を続けていた日本も1853年アメリカの海軍提督ペリーの来航により遂に開国を余儀なくされました。それに伴い長崎にも外国人居留地が造成され、当時まだ禁教令下でしたが在留外国人の希望で礼拝を行う教会が建立されることになり、1864年(元冶元年)中世ヨーロッパ建築を代表するゴシック調の大浦天主堂が完成しました。直前に列聖されたばかりの日本二十六聖殉教者に祈りを捧げるため、正面は彼らが殉教した西坂の丘に向いて建っています。翌年1865217日、ジラール教区長により天主堂は「日本26聖人殉教者天主堂」と命名されましたが、地域の人々はフランス人のために建てられたため「フランス寺」と呼んでいました。



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 翌月から珍しい西洋風の建物を一目見ようと見物人が訪れるようになりました。ある日聖堂内で祈るプチジャン神父に「ワタシノムネ、アナタトオナジ」、とささやいて信仰告白した日本の婦人たちがいました。神父は驚き、大喜びで彼らをマリア像の前に導きます。世界の宗教史上、類を見ない劇的な信徒発見でした。その後、五島、外海、神の島など長崎県の各地から、また遠くは福岡県の今村からまでも、うわさを聞きつけたキリシタンたちがやってきたと言われています。実に7世代、250年もの長い間、仏教徒を装いながら、内にキリストへの熱い信仰をもって、代々伝え聞いた信仰を守りとおしてきた隠れキリシタンと呼ばれる信者達がいたことが明らかになったのでした。長年押しつけられた檀家を捨てる宣言をした彼らに対し長崎奉行所はうかつにキリシタンを迫害すると諸外国から非難される恐れもあり慎重に状況が調べましたが最終的には信者ら68人が捕縛し、激しい拷問をしたのでした。

 この後、明治維新によって日本は新しい政権に移り変わりますが、明治政府は江戸幕府のキリシタン弾圧を踏襲し、3000人以上の信者を流罪にしました。しかし「信仰の自由を国民に与えない国は野蛮である」という諸外国の軽蔑が平等条約の締結の障害になっていることに初めて気が付いた政府は、1873年ようやくキリスト教禁制の高札を撤去します。こうして禁教令以降続いたキリシタン弾圧の歴史に終止符が打たれたのでした。















by Blog_Maya | 2015-04-26 11:22 | 旅行


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