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2011年 11月 13日

私なりの千本ノック

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陶芸家 桃青窯さんが勧める千本ノックにヒントを得て、私もスランプ克服法として首モデルの写実を始めていました。 上の作品は以前にも紹介したことがありますが第一作目。 写実は初めてだったので残念ながら実際より年上になってしまい申し訳なかったのですが、ここから学んだことも多かったです。 

先日のNHKの日曜美術館で画家の岸田劉生を取り上げていました。 恩師は彫刻家でしたが、絵を岸田劉生の弟子に学んだいわゆる孫弟子だと聞いたことがあります。 そんなこともあり何となく興味を持ち、岸田劉生に関する資料を集めました。 すると彼も家族だけでなく、身の回りの人を捕まえてはスケッチを繰り返していたようです。 それはきっと千本ノック。 家に訪れる人は皆、アトリエに引っ張り込んだので「劉生の首狩り」と恐れられていたとか・・・。 モデルを捕まえるのって首狩りみたいなもの?
 
振り返ると師に学ぶことが出来た3年半、粘土と格闘していた私の横顔を時折 先生はスケッチされていました。 年頃だった私はそれがとても恥しくスケッチ帳を直視できなかったのですが、あれも師の千本ノックだったもかもしれません。 今 御存命でしたらモデルになっていただき、挑戦してみたかった思いと果たして先生の人間性を表現出来たか・・・との思いがあります。 個展準備と 新たなモチーフ作りに追われて休止していましたが、そろそろ再開しようと決めました。
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by Blog_Maya | 2011-11-13 10:20 | 素象人形 | Trackback | Comments(0)
2011年 02月 02日

芸術人形指向  <下>

芸術人形の具体性

 人形を芸術として具体的に捉えようとすると、第一に問題になる点は美術工芸界の中で芸術人形の確立した位置づけが安定していないことと、もっと突き進めると主として人体像を作品としている彫刻と同じに人体像を模している玩具的装飾人形との狭間で芸術人形の道とは何かを探しあぐねているいるのかもしれない。 

  可愛らしさと綺麗さのみに過ぎると玩具人形の飾りものになってしまうであろうし、綺麗さを押さえて造形の論理に傾くと工芸の置物になるか、彫刻となってしまうのである。 となると、当然彫刻や工芸の置物とは別の存在として人形を芸術の中に位置づけなければならないのである。 そのためには何を目標にすべきかの問題になるのであるが、これは芸術人形がまったく別な世界となってしまうのものではなく、人形を芸術として捉えようとする限り、彫刻や工芸と同じ造形の基礎概念が要求されるのである。 要するに立体造形の本質的な形式は同じなのである。 又これを無視しては立体像に美を求める芸術的表現は成立しないのである。 例えば彫刻で最重視される量感にしても比例や釣衝の感覚的な捉え方や、停止して動かない形に必要な動静や律動の与え方にしても、形に求める調和の原理にしても、まったく彫刻や工芸の置物と同じなのである。 彫刻では量感を弱める恐れがあるので余り必要としない色彩が人形の場合は大切な命となることが多いのである。 となると、彫刻に色彩を施したならば立派な人形になるのではないかと言うことになるが、彫刻はあくまで彫刻であって人形ではないのである。 では何処に違いがあるかと言うことになるが、この問題を探ることが人形を芸術性のあるものにするか、玩具的なものにするか、彫刻や工芸の置物にするかの岐路となっているようである。 

  此処に至って大別すると二つの問題が考えられるのである。 一つは何是に彫刻は色彩を必要とせず人形には必要なのか、もう一つは造形上の根本論理は同じであっても、彫刻と芸術人形との制作目標なり、表現方法の違いは何処にあるのか。 この二つの問題をもっと具体的に説き明かさなければならないのである。
 
  先ず色彩の問題であるが、彫刻は色彩を無視しているようであるが実際は無視する処か大切な要素なのである。 矛盾したようであるが、それは二次的な作業として施す色彩ではなく素材そのものの持つ色調が彫刻の色彩となっているのである。 素材の持つ色調は、素材の質感の象徴であり、質感の象徴は内面への力、即ち量感に強く関係しているのである。  それ故に彫刻は二次的な色彩を余り施さないのである。 それと表面上の処理の仕方も色調と似た意味を持っており、可塑性の材料を使って整えてゆく操作のモドレともモデリングとも言える味わいは最終的にはブロンズ像の色艶とともに色調の良し悪しの中に加えられて鑑賞されるものである。 木彫りにした処が色彩を施さずとも木肌そのものが色調となっており、鑿あとはモドレの意味になるのである。 木肌に色彩を施した作品もあるが木の持つ質感は毀さず生かしているのである。 たとえ色彩を全面に施した彫刻であっても(抽象作品に多く見る)色彩のあるなしに拘わらず彫刻とは構築性の方行に向かっており、人形はあくまで室内の装飾としての作品なのである。 では二十センチか、三十センチの小品彫刻も室内の装飾品でしかあり得ないのではないかと言うことになるが、確かに装飾品として用をなしているが彫刻であることは如何に小さくとも彫刻なのである。 それは構築性である彫刻の造型を念頭に置いて制作しているからである。 もし全く彫刻としての概念を抜きにして、ただ置物として制作したとするならば工芸の置物と言わなければならないであろう。 となると、工芸の置物は彫刻より下位に位置づけられるものかと誤解されるようであるが、工芸の置物は置物としての格調の難しさがあり、どちらが上位とか下位とかの差はないのである。 これは芸術人形も同じであって、その甚深微妙さはどちらも人の知と技によって創作される芸術を目標にしているからである。

  初めにもどって今度は何是に芸術人形に色彩が必要かの問題になるのである。 第一は芸術人形と言おうと、美術工芸人形と言おうと、人形と言う名称のつく以上は人形と言う綺麗さ、即ち色彩の美しさを抜きにして人形としての存在は有り得ないからである。 第二は逆説になるが、二次的な色彩を施すことによって彫刻や工芸置物でないことの証でもあるし、綺麗さを第一義とする室内装飾作品としての意に叶うからである。 しかし綺麗さにはあくまで格調の高さがなければならない。 日本画の名画に見る素晴らしさを人形という形の中に注ぎ込んだものともみれるであろう。 故に色彩は絵画の部に入るものである。

  次に造型上の問題であるが、彫刻も芸術人形も造型の根本原理は同じでありながら何処に違いがあるのか。 先にも述べたように彫刻は構築性の方行に向かっているものであり、外向的であるのに反して芸術人形は内向的とも言えるものであり、人形に籠める作者の主観的な自己存在性と創造性の訴えなのである。 そうした面では芸術とは作者の感情表現なのであるが、芸術人形とは作者の感情を通して人形自体が醸し出す感情の表現だともいえるであろう。 然もそれは表面に局短に出すものではなく、奥深い処からじんわりと尽きることなく匂い出てくる美妙なる芳香でなければならない。 そのためには顔の作りが最重視されるのである。
 顔の表情が全体の形を作り出すか、全体の形が顔の表情を作り出してくるか、例えば顔を匿した形であっても、全体の形が顔の表情を暗示させられる姿、形でなければならない。 何れであろうと顔の作りが中心となって全体の形が出来上がってくるのである。 その点、彫刻とは無限の空間の中に力の固まりとなって羽ばたこうとするものであり、外向と内向との大きな違いがあると言えよう。

  改めて芸術人形とは何か、と言いきることは出来ないのであるが、立体造形の芸術論理と絵画芸術(日本画風になることが多いであろう)を併せ持ったものであり、より多くの深い人間感情を秘めたものでなければならず、それは言葉のない形の詩なのである。 故に芸術人形を制作しようとする者は立体造形と絵画との、どちらも芸術としての技能と論理を学ばなければならないのである。

  何れあれ最初に述べたように人形を芸術として表現するためには難問が多く匿されており、考え方によっては解き明かせない問題が山積みしているだけにやり甲斐のある仕事なのかもしれないのである。 鑑賞する人も、ただ単に人形と言う玩具的な飾り物と、芸術性のある人形との意味合をよくよく鑑賞してもらいたいものである。 
                                          
                                     昭和五十九年十月   「芸術人形指向」 小林止良於著より抜粋

                                                


 この冊子は当時芸術作品として人形を扱おうとしない道内の美術関係者に業を煮やして、師が配布しました。 そのため芸術人形の認識に重きを置き、色彩のない素象人形に関しての言及はありません。 が、師から教えていただいた人形論が余すところなく書かれています。  長文お付き合いありがとうございました。
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by blog_maya | 2011-02-02 07:23 | 素象人形 | Trackback | Comments(0)
2011年 01月 26日

芸術人形指向 <中>

芸術人形の内容

 玩具人形なり手芸人形と、芸術人形との区別は何処で決めるのかとなると、これは残念ながらはっきりと一線を画することが出来ないのである。  観るものと作る人の物指しを俟つより他にないのであろう。  美術工芸作品と称しても玩具的な飾り物にすぎないものもあるであろうし、たとえ手芸品の展示場に並んでいても内容は優れたもので美術工芸品として受け取れるものもあるであろう。 作る人も観る人も、人形としての芸術作品とは何かの原点に戻って考えなければならないことになる。  だがこれは美術評論家か、実際に制作に当たっている作家の問題であって、一般的には論理ではなくて感覚で捉えるよりほかにないのである。
  
 二回目の素象人形展と名付けた私の個展の会場で来客と親しく話をしている折りに、こんなことを口にしたのを覚えている。 「頭で覚えたことと、心で覚えたことと、体でおぼえたことを、私という感情の風呂敷にほうり出したものが作品なのです。」と、話のやり取りの中でふと思いついた儘を軽い気持ちで言葉にしたのであるが、後になって改めて考え直してみると簡単に片付けられることではないようである。  頭とは智識であり、詰め込んだものとも言えるであろう。 心とは智慧であって詰め込むものではなく、自分の人生経験や本で読んだり教えられてきた諸々の智識を自分なりの人間性の中で咀嚼して放出するものなのであろう。  体とは体験であり、行動であって、技術の習得である。  そして風呂敷とはその人その人の持つ感性であり個性であって、人格的な価値とも言えるのである。 換言すれば、真と美と壮と善になるのかもしれない。  真とは道理であって偽りのない真実であり、美とは真実の中より生ずる知覚であり感覚や感情に訴える内的快感なのであろう。  壮とは健全なる心身を持って制作活動に充実出来ることである。 善とは倫理上の善であると同時に個人を含む人格とも言えるのである。  思うにまかせて喋ったことを勝手に解釈してみたのであるが、ここで言う美とは心であり、精神であって、直接造形上の美ではないようにも取れるのであるが、この美と言う文字は美術の美であり、美しいと言う華美にも通じており、造形上の美であることも論を候ないのである。 美という言葉は精神と容姿、即ち心と形の二重構造になっているのである。  それに日本人的な感情をさらに加えると、わびとかさびとか幽玄、それにももののあはれと言った無常観にも通じる仏教的な縁起の思想にまで無意識の内に美と言う感覚となって捉えているのでなかろうか。

  芸術性を表現する美を人形に求めようとするならば、どうしてもこの日本人の心の奥深くに隠されてる血の流れとも言うべき日本人的な審美の知的、情的な感受性を無視することは出来ないようである。  このように言うと芸術人形とは日本風俗を模した日本人の姿、形でなければならないと言う誤解を受けるおそれがあるが、衣服や装い、それに何時の時代であろうと、何処の国の風俗や人物であろうとそんなことは問題ではなく、形の中に内蔵されている情操のことであり量感なのである。  この場合の量感とは重量的ではなく、人形に籠められた人間感情の重厚さなのである。 それは音のない音律でもあり、言葉のない詩とも言えるであろう。  いま此処で欧米の人形を取り上げてみると、西洋人形と言われる伝統のある高級人形は綺麗さと、材料の高価さと技術の巧みさだけに価値づけられているものであって、あくまで高価な飾り物の玩具人形なのである。

 美を心と形の二重構造として直感的に捉える術を知っている吾々は美術工芸の範疇の中で取り分け人形は人の姿を模すことだけに価値づけられる作業であるから、その形態の中には、より一層に精神的な美を要求されるのである。 芸術人形を作ろうとすることは人形を創作っているのではなく、人情を創作っているのである。  
 
   
 

                                       昭和59年発行 「芸術人形指向」 小林止良於著より抜粋
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by blog_maya | 2011-01-26 08:17 | 素象人形 | Trackback | Comments(0)
2011年 01月 22日

芸術人形指向 <上>

年末の片付けの際、久しぶりに恩師 小林止良於氏が芸術人形の概念を纏めた冊子に再会しました。  この機会に一部抜粋し、何回かに分けて紹介させていただこうと思います。

                                 
                                       
人形の呼称

 人形を美術工芸の中に加え、芸術性のあるものとして捉えようとすると、どのような考え方を持って制作し、また鑑賞しなければならないのであろうか。  その前に人形と芸術という言葉とは結びつけるのは無理がある。 人形と言う言葉の持つ印象は、人形を「お人形さん」とさん付けして呼ばれるように、抱きかかえて愛玩する可愛らしさや綺麗さのある人形を指すか、お雛様のように飾って姿、形、色彩による綺麗さを求めて楽しむものであり、どちらも玩具としての人形になってしまうからである。

 人形を作品として認め、美術工芸の中に参加しようと活動したのは昭和の初めであり、実際には昭和十年の第一回帝展の工芸部門に初めて参加できたのである。 それだけに人形を美術工芸として捉えようとするには歴史的にも日が浅く、人形と言う呼称からだけでは一般的にどうしても玩具としての印象に傾かざるをえないのである。  昭和の人形作家達は芸術性のある作品制作のために、一般商品としての人形とは別に、創作人形としての芸術の創造性と主観性を唱え、如何に制作したならば芸術価値のある作品になるかと模索し、人形も立派な芸術価値のあることを認めさせようと努力を続け、現在に至ったのである。 当時は創作人形の創作という言葉が芸術人形に相応しい新鮮な言葉として受け取られていたのであるが、最近では女性的な仕事である手芸が手作りで新たな姿態のものを考案し、創作人形と称しているため、芸術表現の持つ意味としては稀薄なものとなっているようである。  だからといって手芸が創作という言葉を使ってはいけないという理由はどこにも無く、玩具人形だろうと、手芸人形であろうと創作は創作なのである。  けれど手芸とは文字通り手先の遊びの芸であって、楽しむ遊びの作業と考えなければならない。  新しい手芸人形を工夫するのに大変な時間と努力を要したとしても、考案された技法はその技法と手順を普及して大衆の生活の中に楽しみと潤いを与えるためのものなのであろう。  芸術の中に求める美とは、美学と言う学術的な基礎内容を要するものであり、美学的な智覚の論理を正当化しようとする終わりなき表現の積み重ねなのである。  となると芸術性を目標にする人形を何と称したらいいのであろうか。 一応は美術工芸人形か直接に芸術人形と言うよりほかにないようである。
  
 人形という名称より受ける印象に就いて思考してきたのであるが、名称より観賞者に与える意義は大きいものであり、感情なり、感覚への影響は無視出来ないはずである。  作者の立場にあっても、芸術性を追い掛ける程に人形という呼称に就いては解けきれない宿題のようなものとなっているのではないかと思われるのである。   

                                          昭和59年発行 「芸術人形指向」 小林止良於著  一部要約

<補足>
1995年(昭和30年)より現在までに重要無形文化財保持者(人間国宝)として衣裳、紙塑、桐塑の人形作家7人が認定されています。  
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by blog_maya | 2011-01-22 14:57 | 素象人形 | Trackback | Comments(0)
2009年 09月 18日

師の教え 3   

資料を整理していたら、恩師 小林止良於氏の芸術人形論が掲載された記事をみつけました   
今日は おさらいする気持ちで一部抜粋して紹介させていただきます
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                        人形に問う                      小林止良於 

能楽の伝書である世阿弥の風姿花伝に「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」とあるが、それは観る人に感動を与える花は表面に出すべきではなく、演じる者の心に秘められたところに咲かすべきだと言っているようである。玩具人形や装飾人形より脱して人形に芸術性を求めようとするなら、世阿弥のいう秘すれば花とは人形にも通じる言葉であると思うのである。  能は演じる動作の中に美を表現するのであるが、人形は静止して動かないという大きな違いがある。静止している形であるだけに、なおさらに内蔵された美が要求されるのであろう。それと秘する花とは、真実性であり、自然に、素直に、形の中より滲み出てこなければならない美なのであろう。 

 では、秘められながら表に出る人形の美とはなんなのであろうか。それは形自体が人形という人の姿態を模して表現するものであるから、他の造形よりも必然的に人の情けに重きを置かなければならなくなるのである。要するに秘められた表に出る美とは、人形という形の中に込められた情けなのである。情けとは、情けに伴う自然な姿態であり、姿態よりいでてくる顔の表情なのであって、それは恋情であり、友情であり、親子の情なのである。そこには悲しさがあるからいとおしいのであり、いとおしいから悲しいのである。愛と書いてかなしいとも、いとしいとも解釈出来るところに人形の花が秘められ、芸術としての人形が表現され、観る人に好感を与えるのであろう。

 このように記してくると人形の美とは人情話を形にしたものかと誤解される恐れがあるが、劇的な表現であろうと表現される形はいずれであれ、表現された人形自体の人格が問題なのである。作られた形が幼児であれ、少女であれ、大人であれ、それぞれの姿態の中には人格がなければならない。人形に人格と言うのはおかしいとするなら、気品であり、優雅な奥ゆかしさとでもいうべきであろう。 優れた美を表現するためには、まず優れた技を要求されるのは当然であり、優れた技とは一朝一夕になるものではなく、繰り返しの修練によって得られるのであるが、ただ技の繰り返しによって造りだされるだけでは芸術は許されないのである。常に創造性が伴っていなければならず、個々の人間性によって生じる知と技が個性となり、その魂を人形に移し込むところに人形芸術の所以があるのでなかろうか。
                                          北海道新聞   1986年2月22日 記事一部抜粋

この記事が掲載された時はまだ私は師に出会っていませんでした    内弟子として初めて工房を訪れた時に渡されたと記憶しています   今時期 この記事が出てきたのは「初心忘るべからず」と師が導いてくれているのかもしれません
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by Blog_Maya | 2009-09-18 23:00 | 素象人形 | Trackback | Comments(0)
2009年 05月 30日

師の教え 2

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 ひ と が た 
人  形

つげ箆の細い先に取り上げた
涙粒の半分程の粘土は
粘土ではなくて金塊
いや 宝石
いいえ それ以上の
命の精なのです
ほら
この小さな粘土を
この人形の鼻先につけると
命が蘇ってくるでしょう
唇の処にもってゆくと
言葉が聞こえてくるでしょう
もはや粘土ではなくて
神より与えられた
肉と魂なのです
天地創造の神が
人間を泥より創り給うたという
意味が
解るような気がしてきました

             平成元年七月一日
                      小林   止良於


「師の人形論を広めたい」と思いながら、なかなかできないでいました   上の詩は生前先生が作られたもので、見事に作り手の思いを表現しています    これ以上足す事も引く事も必要ない位凝縮されているのでした   本当は縦書きの方がこの詩にふさわしいと思うのですが、残念ながらブログには縦書きの機能がありません    私は行き詰った時 よくこの詩を口ずさんでいます      だからといっていいアイディアが湧くわけではありませんが・・・     
何かにすがりたい時ってありますよね
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by Blog_Maya | 2009-05-30 08:55 | 素象人形 | Trackback | Comments(2)
2008年 10月 18日

師の教え

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師は道内美術工芸の世界で人形が軽く扱われている事を憂慮されていました  どうしても「お人形」という可愛らしさと綺麗のみの玩具人形や手芸人形と同じに捉えられてしまうのです   そのため1984年 師は芸術人形の概念を纏められた冊子を自費出版  この内容をここでつぶさに掲載する事は出来ないけれど、私の印象に残った一文を紹介いたします

「頭で覚えたこと、心で覚えたこと、体で覚えたことを、私と言う感情の風呂敷に包んでほうり出したものが作品なのです」


これは先生が個展会場で来客と話をされた折に ふと思いついた儘を言葉にされたと書いてありましたが、とても深く 私にはまだまだそこに到達できないながらも 目指していきたいと思うのでした
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by Blog_Maya | 2008-10-18 08:22 | 素象人形 | Trackback | Comments(2)
2008年 09月 29日

素象人形 泥の会展 終了報告

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恩師 小林止良於先生の没後十年を記念して開催した記念展は昨日無事終了しました
師の懐かしい作品や初めて見る作品に私達も思い出話に花が咲き、来館いただいた方にも先生の一連の人形と
私達の活動を見ていただけたと思います  お越しいただいた皆さん、本当にありがとうございました
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嬉しい事に北海道美術ネットを主催されているブロガーの方にお会いする事が出来ました  札幌を中心に道内のギャラリーを丁寧に取り上げて下さる方で、私達の素象人形も杢泥会の頃から記事にしてくださっていました  
既にもう素敵な記事にしてくださいましたので、こちらをご覧下さい
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十年を経ても師への皆の思い 志は変わることなく、この仲間でこれからも活動していくという意思を再確認できた展で、
最後に二年後の泥の会展まで精進した作品をと、誓い合って会場を後にしました
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by Blog_Maya | 2008-09-29 13:53 | 素象人形 | Trackback(1) | Comments(0)
2008年 09月 05日

少し早いですが・・・       素象人形  泥(ひじりこ)の会展の案内です

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私ども素象人形グループ展は二年おきに札幌で開催していますが、今年は恩師 小林止良於先生の没後十年にあたり、
特別展を企画いたしました  私どもの作品と併せて師の作品10点程展示いたします   
久しぶりに拝見できる先生の作品に私どもも胸を弾ませているのでした   今回持ち回り幹事の一人が私で この案内状を制作(といっても印刷会社に頼んだだけですが)  仲間に助けられながら、不手際がないよう準備中です
今月の23日から始まりますが、一人でも多くの方に見ていただきたいと思いますので 宜しければお越しくださいませ

素象人形  泥の会展   ー恩師 小林止良於氏を偲んでー

会期  平成20年9月23日(火・祝日)~28日(日)
     AM10:00~PM5:00(最終日PM4:00)
会場  札幌市資料館ミニギャラリー 3号室 (教育文化会館斜め向い)
     札幌市中央区大通西13丁目
     Tel (011)251-0731

ちなみに・・
私の展示作品は以前制作中をアップしたものです 先月やっと出来上がりました  只今乾燥中です
自己採点は65点かな   犬に時間を掛けすぎて・・・  でも何事もチャレンジだと思ってます!
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by Blog_Maya | 2008-09-05 18:05 | 素象人形 | Trackback | Comments(8)
2007年 05月 17日

師の人形

以前、師の彫刻家としての作品を紹介いたしました。こちらは人形の作品です。
私の作品にはない構成力、品のある表情。私の下手な写真でも伝わるといいのですが・・・。  
私の出産祝いにと制作してくださったもので大切に飾っておりますが、それだけではありません。
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「いずれは抽象をやりたい。」と言っていた私に「自分は教えてあげられないけれど、いつの日か出来るように頑張りなさい。」という思いが込められているように思うのです。
この時既に私が子育てを終えて制作に復帰するのを、自分が見てあげられないと悟られていたのではないでしょうか。
そう思いながら作品を見ると胸が熱くなるのです。
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by Blog_Maya | 2007-05-17 07:32 | 宝物 | Trackback | Comments(2)