2015年 05月 04日
長い人は16連休も取れたらしいですが、我が家はカレンダー通りのお休みです。それにしても今年は桜の開花が早すぎ。気持ちにゆとりがなくて撮りに行けませんでした。 祝日なので人影はまばらです。 大学の裏手からは見晴らしがいいです。校舎が高台にあるのですから当然ですね。けれど葉が茂るとこの景色は見えなくなるので今の時期限定なのでした。 これは千島桜、手宮公園で唯一咲いていた品種です。こちらのソメイヨシノは終わっていました。あと八重桜はつぼみがふくらんでいたのでこれからなのだと思います。 ここからの眺めもいいのですが、ズームで寄ってみたら、 #
by Blog_Maya
| 2015-05-04 09:49
| 小樽
2015年 05月 01日
さすが人気ブロガーさんです。私は今日はさらりと見るだけにして、後日ゆっくりと拝見することにしました。 「ここはどこ?」「錦町のあそこじゃない?」、そんな会話で楽しまれる方が多いです。 観光地ではない普段着の小樽、そんな小樽の良さを私が知るきっかけになった方です。小樽歴25年の私ですが、小樽スケッチ を拝見すると時々ハッとする画像があります。普通なら見落としがちな味わいのある情景、小樽にはたくさんあるよとainosatoさんからのメッセージ。 今はない懐かしい建物もスケッチ加工という愛情フィルターを通して見るとほっこりと懐かしさが込み上げてくるのでした。 今年はかねてより要望の多かったふわラーのポストカードも展示販売されています。 数に限りがありますので、ご希望の方はお早めにお越し下さい。 また作者にお会いしたい方は事前に在廊予定をチェックされてください。 「小樽スケッチ 写真展」 5月1日~10日 10:00~18:00(最終日15:00まで) オーセントホテル小樽 1Fギャラリー 小樽市稲穂2-15-1 *5/1から5/5は10:00から21:00まで #
by Blog_Maya
| 2015-05-01 13:45
| 鑑賞
2015年 04月 30日
二泊三日の日程で他にグラバー園と鎖国時代オランダ貿易の拠点として築造された人工島、出島和蘭商館跡、これだけでも訪れた甲斐があったと思います。 また観光スポット以外あまり計画せずに行き当たりばったりで歩きました。 路地裏を歩くと面白いものも見つかって楽しいのです。 ある学芸員の方の話ではグラーバー園は市が観光客の便宜を計るため点在していた6棟の洋館を移築復元したものだそうです。確かに坂の多い長崎に全ての洋館を元の場所で巡るのは大変だったと思いますが、そのために移築するとなんて凄い!同じ観光都市の小樽ですが、長崎とは規模が違いすぎて同じ事は出来ません。 また長崎の人は皆自分の街に誇りを持っています。けれど小樽は北海道開拓時代の首都として栄えた悠久の歴史的建造物が数多く残っていて、二年前に旅行された学芸員さんにも「小樽も素晴らしい街ですね。」と言っていただけました。私達小樽人ももう少し小樽の良さを知り、観光客が地図を持って迷っていたら気軽に声を掛けて差し上げる、そんなささやかなもてなしの気持ちを持ち続けたいと思いました。 長崎、機会があればまた行きたい街です。 #
by Blog_Maya
| 2015-04-30 13:56
| 旅行
2015年 04月 26日
長崎の出島での中国、朝鮮、オランダとの貿易を除いて200年以上鎖国を続けていた日本も1853年アメリカの海軍提督ペリーの来航により遂に開国を余儀なくされました。それに伴い長崎にも外国人居留地が造成され、当時まだ禁教令下でしたが在留外国人の希望で礼拝を行う教会が建立されることになり、1864年(元冶元年)中世ヨーロッパ建築を代表するゴシック調の大浦天主堂が完成しました。直前に列聖されたばかりの日本二十六聖殉教者に祈りを捧げるため、正面は彼らが殉教した西坂の丘に向いて建っています。翌年1865年2月17日、ジラール教区長により天主堂は「日本26聖人殉教者天主堂」と命名されましたが、地域の人々はフランス人のために建てられたため「フランス寺」と呼んでいました。 翌月から珍しい西洋風の建物を一目見ようと見物人が訪れるようになりました。ある日聖堂内で祈るプチジャン神父に「ワタシノムネ、アナタトオナジ」、とささやいて信仰告白した日本の婦人たちがいました。神父は驚き、大喜びで彼らをマリア像の前に導きます。世界の宗教史上、類を見ない劇的な信徒発見でした。その後、五島、外海、神の島など長崎県の各地から、また遠くは福岡県の今村からまでも、うわさを聞きつけたキリシタンたちがやってきたと言われています。実に7世代、250年もの長い間、仏教徒を装いながら、内にキリストへの熱い信仰をもって、代々伝え聞いた信仰を守りとおしてきた隠れキリシタンと呼ばれる信者達がいたことが明らかになったのでした。長年押しつけられた檀家を捨てる宣言をした彼らに対し長崎奉行所はうかつにキリシタンを迫害すると諸外国から非難される恐れもあり慎重に状況が調べましたが最終的には信者ら68人が捕縛し、激しい拷問をしたのでした。 この後、明治維新によって日本は新しい政権に移り変わりますが、明治政府は江戸幕府のキリシタン弾圧を踏襲し、3000人以上の信者を流罪にしました。しかし「信仰の自由を国民に与えない国は野蛮である」という諸外国の軽蔑が平等条約の締結の障害になっていることに初めて気が付いた政府は、1873年ようやくキリスト教禁制の高札を撤去します。こうして禁教令以降続いたキリシタン弾圧の歴史に終止符が打たれたのでした。 #
by Blog_Maya
| 2015-04-26 11:22
| 旅行
2015年 04月 22日
った人物でした。ザビエルは彼から日本の様子を知り、布教を決めます。ザビエルは南蛮貿易を通じて欧州文化も日本に伝えました。当時の大名は近代的兵器、つまり鉄砲と日本では生産できなかった火薬に必要な硝石の輸入と引き替えに布教を許可することとなりました。世の中は戦乱・飢饉に明け暮れた戦国時代人々は救いを求めていましたが、当時の仏教は世俗化が進んでいました。このような時代のため、愛と平和をうったえるキリスト教は入信者を急速に増やしていきます。そして南蛮貿易の中心地の長崎では戦国大名の中にも改宗するものが出てきました。一方、一向一揆という反乱を起こした一向宗に強烈な弾圧をし、仏教勢力の政治的野心を封じた織田信長はキリスト教を仏教の対抗勢力として利用するために布教を積極的に認め、キリスト教全盛時代を迎えました。しかし豊臣秀吉の時代になって伴天連追放令が出されます。それはキリスト教が封建主義や身分制度の否定につながる思想であったこと、仏教の教えを邪宗とみなし寺や神社を打ち壊すようになったり、大名の中にも信者になるものが増え、大村純忠が長崎を与えたように領土を差し出すものが現れたため。またスペインやポルトガルがその進んだ海運力と軍事力によってマラッカやフィリピンなどのアジア諸国を次々と植民地化していることに気が付き、キリスト教が強大化して政治的勢力になったり、侵略を恐れたからでした。しかし秀吉は多大な利益をもたらす南蛮貿易を重視したため、一部の教会を壊したり接収するだけで、強行な禁教は行いませんでした。 しかしイエズス会の独占状態だった日本にフランシスコ会がイスパニア総督使節としてやってきます。このフランシスコ会は日本の政治的背景、宗教的事情を無視し、強引な布教を行っていきました。そのなかで1596年サン・フェリペ号事件が起こります。1596年(慶長元年)暴風のため土佐に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の船荷と乗員の所持金の全てをの秀吉は慣習に従って没収したのです。その上航海士が「我が国は後進国を占領するためにまず宣教師を送り込んで民衆をキリシタンに改宗して味方にし、その上で軍隊を派遣して支配するのだ」と口を滑らせたことが秀吉の耳に入り、態度を硬化させることになってしまいました。 サン・フェリペ号事件をきっかけに秀吉は再び禁教令を公布、フランシスコ会の活発な布教活動が挑発的だと、京都奉行の石田三成にフランシスコ会員とキリスト教徒全員と捕まえ処刑するように命じました。大阪と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の計24名が捕縛されました。光成はイエズス関係者を除外しようとしましたが、果たせませんでした。24名は京都の一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされ、見せしめのため市中引き回しとなりました。そして1597年キリシタンの街長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大阪を出発、なんと長崎まで歩いて向かうのです。また道中でイエス会員の世話をするよう依頼され付き添っていたペテロ助四郎と、同じようにフランシスコ会員の世話をしていた大工のフランシスコも捕縛されました。二人はキリスト教徒として己の信仰のために命を捧げることを拒否しませんでした。 この碑は1962年(昭和37年)列聖100年を記念してクリスチャンの彫刻家・船越保武によって建立された等身大のブロンズ像をはめ込んだものです。ここでは皆正装していますが、実際は全員貧しい身なりで、左の耳たぶは削がれた姿で殉教しました。レリーフで彼らの足が垂れ下がっているのは昇天の様子を描いているからだそうです。ゆっくりと撮影したかったのですが、まもなく修学旅行生がここで集合写真を撮り始めたので数枚しか撮れませんでした。
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by Blog_Maya
| 2015-04-22 11:31
| 旅行
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アバウト
住み慣れた小樽の街や日常、自作の素象人形、他の創作品を紹介していきたいと思います。 by 摩耶 素象(そしょう)人形とは
「素」とは無地、飾らないこと、「象」とは心に浮かんだ姿、かたち。 彫刻家 小林止良於氏が創始の正確なデッサンに基づいた人形です。素材は陶土で成形後、縮み割れを防止する為、中を空洞に貫き乾燥後、焼成したテラコッタです。
プロフィールを読む 外部リンク 風の布・パピヨン Ryokusha.com 屋中秋谷 緑舎の窓 mihoの花 国本貴文「素材を生かす物語」 北海道美術ネット別館 aqua 庄司いずみの野菜ごはん カテゴリ
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