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2014年 07月 28日

マッサンとリタの歩み

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 一週間前の連休に余市のニッカウヰスキー博物館を訪れました。今秋のNHK朝のドラマの舞台になります。
放送されたら、きっと大勢の見学者が来てくれるでしょう。


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それを見越してか、リタの館は修復工事中で閉館、その他の施設も修繕しているのが目につきました。


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 竹鶴政孝、この物語の主人公です。1894年広島県出身、ニッカウヰスキーの創業者で「日本のウイスキーの父」と呼ばれています。製塩業の他、酒造業も営んでいた竹鶴家の三男だった政孝は、大阪高等工業学校(現在の大阪大学)の醸造学科に進学します。その後、洋酒に興味をもっていた竹鶴は当時洋酒業界に強かった大阪の摂津酒造(摂津酒精醸造所) に入社しました。ある夏、アルコール殺菌が徹底して行われていなかっぶどう酒の瓶が店先で破裂する事故が多発しました。しかし竹鶴が製造した赤玉ポートワインは徹底して殺菌されていたため酵母が発生増殖することがなく、割れるものが一つもなかったため、竹鶴の酒造職人としての評判が高まったのです。


 純国産のウイスキー造りを始めることを計画した摂津酒造は1918年竹鶴をスコットランドに派遣、政孝はグラスゴー大学で有機化学と応用化学を学びました。彼は現地で積極的にウイスキー醸造場を見学し、頼み込んで実習を行わせてもらうことも。ウイスキー用の蒸留釜(ポットスチル)の内部構造を調べるため、専門の職人でさえ嫌がる釜の掃除を買って出たという逸話もあります。

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 スコットランドに滞在中、竹鶴は大学で知り合った女子学生に頼まれて末弟に柔道を教えていましたが、その姉であるジェーシー・ロバート・カウン(通称リタ)と親交を深めます。年も暮れに近づき、カウン家は竹鶴をクリスマス家に招きました。クリスマスのクライマックスはイギリスでポピュラーなプディング占いといって、取り分けられたプリンの中に6ペンス銀貨が入っていたら大金持ちに、指輪を当てた女の子はお嫁さんになれるというものです。ところがなんと竹鶴に銀貨、リタに指輪が当たりました。その後まもなく竹鶴はリタに「あなたさえよければ、私はスコットランドに残って働いてもいい。」とプロポーズをしました。しかしリタはきっぱりと、「いえ、私たちはスコットランドに留まるべきではありません。あなたの夢は日本でウイスキーを作ること、私もその夢とともに生き、お手伝いをしたいと思います。」 と見知らぬ国、日本について行く決意を固めていたのです。しかしまだ国際結婚に抵抗が強かった大正時代、竹鶴家は勿論、リタの家族も大反対でした。1920年1月8日二人は教会での挙式を諦め、登記所で2名の証人と登記官の前で宣誓するだけの寂しい結婚式をします。同年11月、リタを連れて竹鶴は日本に帰国しました。 

 異国日本で最初にリタがしたことは日本の生活に馴染むことでした。リタは日本語は勿論、日本料理を学び、漬け物まで漬けていたと聞きます。その結果、リタは日本の女性以上に日本人らしい女性となりました。しかし太平洋戦争に突入した時、故郷が敵国となり、リタはスパイ容疑を掛けられ、警察に尾行されたり、石を投げつける者もいたといいます。「私は日本人なのに、どうして尾行されるの。この眼と髪を黒くして鼻を低くしたい。」、リタは竹鶴を献身的に支えながらも嘆きました。

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 帰国後、摂津酒造は不運なことに第一次世界大戦後の戦後恐慌によって資金調達が出来ず、純国産ウイスキーの製造計画は頓挫。その後1922年竹鶴は摂津酒造を退社しました。翌年の1923年大阪の洋酒製造販売業者寿屋(現在のサントリー)が本格ウイスキーの国内製造を企画し社長の鳥井信治郎は竹鶴を年俸四千円という破格の給料で採用。この年俸は、スコットランドから呼び寄せる技師に払うつもりだった額と同じと言われています。竹鶴は製造工場をスコットランドに似た風土の北海道に作るべきだと考えていましたが、鳥井は消費地から遠く輸送コストがかかることと、客に直接工場見学させたいという理由で難色を示し、仕方なく竹鶴は大阪周辺の候補地の中で良質の水が使え、スコットランドの著名なウイスキーの産地ローゼスの風土に近く、霧が多いという条件から山崎工場および製造設備を整えました。けれど竹鶴は諦めた訳ではありませんでした。理想の地、北海道余市でウイスキー製造を開始するため、竹鶴は山崎で後継者を育て、最初の約束である10年が経過した時、竹鶴は寿屋を退社。資本を集め、余市に大日本果汁株式会社を設立します。実は彼は起業する際、「寿屋と鳥居には恩があるので、余市でウイスキー製造をする気はない、大日本果汁はその名の通り、リンゴジュースを製造販売する会社だ。」と説明して出資を募りました。そして1935年5月、日果林檎ジュースの出荷を開始。しかし他社が6銭の果汁入り清涼飲料を作っていたのに対して30銭もする果汁100%ジュースしか販売しなかったため、あまり売れませんでした。混ぜ物をしていないため製品が濁ることがあり、誤解した消費者や小売店からの返品も相次いだのです。莫大な返品と積み上がった在庫をどうするのかという話になったところで、竹鶴はようやくそれらを使って蒸留酒を造る、そのついでに少量のウイスキーも仕込む、という話を持ち出してきたといいます。彼は策士でした。実際、大日本果汁は創業後しばらくは酒造免許を取得していませんでした。そして遂に1940年余市で製造した最初のウイスキーを発売。社名の「日」「果」をとり、『ニッカウヰスキー』と命名しました。

 リタは長い間の心労と厳しい冬の寒さが堪え、60才を過ぎてから入退院を繰り返すようになり、64才で竹鶴に看取られて亡くなりました。晩年リタは「年老いていくのは寂しいこと。でも私は人生を自分の意志で切り開いたことを憶えておこうと思う。」と記しています。彼女の人生は竹鶴一人を頼りに母国を捨てる心境で日本に渡り、日本の文化や食習慣などに溶け込もうと努力をし、竹鶴を献身的に支えることで大きな夢を叶えました。リタは竹鶴のことを最初はマサタカサンと呼んでいましたが、呼びづらいので縮めてマッサンと呼ぶようになったそうです。マッサンとリタは今もウイスキーの理想の地として選んだ余市の街、そして愛する工場を見下ろせる美園町のお墓で眠っています。秋からのNHKのドラマでどのようにこの物語が描かれるのか、とても楽しみです。

 
 






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by Blog_Maya | 2014-07-28 13:54 | 市外 | Trackback | Comments(0)
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