2011年 02月 02日
芸術人形の具体性 人形を芸術として具体的に捉えようとすると、第一に問題になる点は美術工芸界の中で芸術人形の確立した位置づけが安定していないことと、もっと突き進めると主として人体像を作品としている彫刻と同じに人体像を模している玩具的装飾人形との狭間で芸術人形の道とは何かを探しあぐねているいるのかもしれない。 可愛らしさと綺麗さのみに過ぎると玩具人形の飾りものになってしまうであろうし、綺麗さを押さえて造形の論理に傾くと工芸の置物になるか、彫刻となってしまうのである。 となると、当然彫刻や工芸の置物とは別の存在として人形を芸術の中に位置づけなければならないのである。 そのためには何を目標にすべきかの問題になるのであるが、これは芸術人形がまったく別な世界となってしまうのものではなく、人形を芸術として捉えようとする限り、彫刻や工芸と同じ造形の基礎概念が要求されるのである。 要するに立体造形の本質的な形式は同じなのである。 又これを無視しては立体像に美を求める芸術的表現は成立しないのである。 例えば彫刻で最重視される量感にしても比例や釣衝の感覚的な捉え方や、停止して動かない形に必要な動静や律動の与え方にしても、形に求める調和の原理にしても、まったく彫刻や工芸の置物と同じなのである。 彫刻では量感を弱める恐れがあるので余り必要としない色彩が人形の場合は大切な命となることが多いのである。 となると、彫刻に色彩を施したならば立派な人形になるのではないかと言うことになるが、彫刻はあくまで彫刻であって人形ではないのである。 では何処に違いがあるかと言うことになるが、この問題を探ることが人形を芸術性のあるものにするか、玩具的なものにするか、彫刻や工芸の置物にするかの岐路となっているようである。 此処に至って大別すると二つの問題が考えられるのである。 一つは何是に彫刻は色彩を必要とせず人形には必要なのか、もう一つは造形上の根本論理は同じであっても、彫刻と芸術人形との制作目標なり、表現方法の違いは何処にあるのか。 この二つの問題をもっと具体的に説き明かさなければならないのである。 先ず色彩の問題であるが、彫刻は色彩を無視しているようであるが実際は無視する処か大切な要素なのである。 矛盾したようであるが、それは二次的な作業として施す色彩ではなく素材そのものの持つ色調が彫刻の色彩となっているのである。 素材の持つ色調は、素材の質感の象徴であり、質感の象徴は内面への力、即ち量感に強く関係しているのである。 それ故に彫刻は二次的な色彩を余り施さないのである。 それと表面上の処理の仕方も色調と似た意味を持っており、可塑性の材料を使って整えてゆく操作のモドレともモデリングとも言える味わいは最終的にはブロンズ像の色艶とともに色調の良し悪しの中に加えられて鑑賞されるものである。 木彫りにした処が色彩を施さずとも木肌そのものが色調となっており、鑿あとはモドレの意味になるのである。 木肌に色彩を施した作品もあるが木の持つ質感は毀さず生かしているのである。 たとえ色彩を全面に施した彫刻であっても(抽象作品に多く見る)色彩のあるなしに拘わらず彫刻とは構築性の方行に向かっており、人形はあくまで室内の装飾としての作品なのである。 では二十センチか、三十センチの小品彫刻も室内の装飾品でしかあり得ないのではないかと言うことになるが、確かに装飾品として用をなしているが彫刻であることは如何に小さくとも彫刻なのである。 それは構築性である彫刻の造型を念頭に置いて制作しているからである。 もし全く彫刻としての概念を抜きにして、ただ置物として制作したとするならば工芸の置物と言わなければならないであろう。 となると、工芸の置物は彫刻より下位に位置づけられるものかと誤解されるようであるが、工芸の置物は置物としての格調の難しさがあり、どちらが上位とか下位とかの差はないのである。 これは芸術人形も同じであって、その甚深微妙さはどちらも人の知と技によって創作される芸術を目標にしているからである。 初めにもどって今度は何是に芸術人形に色彩が必要かの問題になるのである。 第一は芸術人形と言おうと、美術工芸人形と言おうと、人形と言う名称のつく以上は人形と言う綺麗さ、即ち色彩の美しさを抜きにして人形としての存在は有り得ないからである。 第二は逆説になるが、二次的な色彩を施すことによって彫刻や工芸置物でないことの証でもあるし、綺麗さを第一義とする室内装飾作品としての意に叶うからである。 しかし綺麗さにはあくまで格調の高さがなければならない。 日本画の名画に見る素晴らしさを人形という形の中に注ぎ込んだものともみれるであろう。 故に色彩は絵画の部に入るものである。 次に造型上の問題であるが、彫刻も芸術人形も造型の根本原理は同じでありながら何処に違いがあるのか。 先にも述べたように彫刻は構築性の方行に向かっているものであり、外向的であるのに反して芸術人形は内向的とも言えるものであり、人形に籠める作者の主観的な自己存在性と創造性の訴えなのである。 そうした面では芸術とは作者の感情表現なのであるが、芸術人形とは作者の感情を通して人形自体が醸し出す感情の表現だともいえるであろう。 然もそれは表面に局短に出すものではなく、奥深い処からじんわりと尽きることなく匂い出てくる美妙なる芳香でなければならない。 そのためには顔の作りが最重視されるのである。 顔の表情が全体の形を作り出すか、全体の形が顔の表情を作り出してくるか、例えば顔を匿した形であっても、全体の形が顔の表情を暗示させられる姿、形でなければならない。 何れであろうと顔の作りが中心となって全体の形が出来上がってくるのである。 その点、彫刻とは無限の空間の中に力の固まりとなって羽ばたこうとするものであり、外向と内向との大きな違いがあると言えよう。 改めて芸術人形とは何か、と言いきることは出来ないのであるが、立体造形の芸術論理と絵画芸術(日本画風になることが多いであろう)を併せ持ったものであり、より多くの深い人間感情を秘めたものでなければならず、それは言葉のない形の詩なのである。 故に芸術人形を制作しようとする者は立体造形と絵画との、どちらも芸術としての技能と論理を学ばなければならないのである。 何れあれ最初に述べたように人形を芸術として表現するためには難問が多く匿されており、考え方によっては解き明かせない問題が山積みしているだけにやり甲斐のある仕事なのかもしれないのである。 鑑賞する人も、ただ単に人形と言う玩具的な飾り物と、芸術性のある人形との意味合をよくよく鑑賞してもらいたいものである。 昭和五十九年十月 「芸術人形指向」 小林止良於著より抜粋 この冊子は当時芸術作品として人形を扱おうとしない道内の美術関係者に業を煮やして、師が配布しました。 そのため芸術人形の認識に重きを置き、色彩のない素象人形に関しての言及はありません。 が、師から教えていただいた人形論が余すところなく書かれています。 長文お付き合いありがとうございました。
by blog_maya
| 2011-02-02 07:23
| 素象人形
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住み慣れた小樽の街や日常、自作の素象人形、他の創作品を紹介していきたいと思います。 by 摩耶 素象(そしょう)人形とは
「素」とは無地、飾らないこと、「象」とは心に浮かんだ姿、かたち。 彫刻家 小林止良於氏が創始の正確なデッサンに基づいた人形です。素材は陶土で成形後、縮み割れを防止する為、中を空洞に貫き乾燥後、焼成したテラコッタです。
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