ブログ HITOGATA   in Otaru       by摩耶

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2011年 01月 26日

芸術人形指向 <中>

芸術人形の内容

 玩具人形なり手芸人形と、芸術人形との区別は何処で決めるのかとなると、これは残念ながらはっきりと一線を画することが出来ないのである。  観るものと作る人の物指しを俟つより他にないのであろう。  美術工芸作品と称しても玩具的な飾り物にすぎないものもあるであろうし、たとえ手芸品の展示場に並んでいても内容は優れたもので美術工芸品として受け取れるものもあるであろう。 作る人も観る人も、人形としての芸術作品とは何かの原点に戻って考えなければならないことになる。  だがこれは美術評論家か、実際に制作に当たっている作家の問題であって、一般的には論理ではなくて感覚で捉えるよりほかにないのである。
  
 二回目の素象人形展と名付けた私の個展の会場で来客と親しく話をしている折りに、こんなことを口にしたのを覚えている。 「頭で覚えたことと、心で覚えたことと、体でおぼえたことを、私という感情の風呂敷にほうり出したものが作品なのです。」と、話のやり取りの中でふと思いついた儘を軽い気持ちで言葉にしたのであるが、後になって改めて考え直してみると簡単に片付けられることではないようである。  頭とは智識であり、詰め込んだものとも言えるであろう。 心とは智慧であって詰め込むものではなく、自分の人生経験や本で読んだり教えられてきた諸々の智識を自分なりの人間性の中で咀嚼して放出するものなのであろう。  体とは体験であり、行動であって、技術の習得である。  そして風呂敷とはその人その人の持つ感性であり個性であって、人格的な価値とも言えるのである。 換言すれば、真と美と壮と善になるのかもしれない。  真とは道理であって偽りのない真実であり、美とは真実の中より生ずる知覚であり感覚や感情に訴える内的快感なのであろう。  壮とは健全なる心身を持って制作活動に充実出来ることである。 善とは倫理上の善であると同時に個人を含む人格とも言えるのである。  思うにまかせて喋ったことを勝手に解釈してみたのであるが、ここで言う美とは心であり、精神であって、直接造形上の美ではないようにも取れるのであるが、この美と言う文字は美術の美であり、美しいと言う華美にも通じており、造形上の美であることも論を候ないのである。 美という言葉は精神と容姿、即ち心と形の二重構造になっているのである。  それに日本人的な感情をさらに加えると、わびとかさびとか幽玄、それにももののあはれと言った無常観にも通じる仏教的な縁起の思想にまで無意識の内に美と言う感覚となって捉えているのでなかろうか。

  芸術性を表現する美を人形に求めようとするならば、どうしてもこの日本人の心の奥深くに隠されてる血の流れとも言うべき日本人的な審美の知的、情的な感受性を無視することは出来ないようである。  このように言うと芸術人形とは日本風俗を模した日本人の姿、形でなければならないと言う誤解を受けるおそれがあるが、衣服や装い、それに何時の時代であろうと、何処の国の風俗や人物であろうとそんなことは問題ではなく、形の中に内蔵されている情操のことであり量感なのである。  この場合の量感とは重量的ではなく、人形に籠められた人間感情の重厚さなのである。 それは音のない音律でもあり、言葉のない詩とも言えるであろう。  いま此処で欧米の人形を取り上げてみると、西洋人形と言われる伝統のある高級人形は綺麗さと、材料の高価さと技術の巧みさだけに価値づけられているものであって、あくまで高価な飾り物の玩具人形なのである。

 美を心と形の二重構造として直感的に捉える術を知っている吾々は美術工芸の範疇の中で取り分け人形は人の姿を模すことだけに価値づけられる作業であるから、その形態の中には、より一層に精神的な美を要求されるのである。 芸術人形を作ろうとすることは人形を創作っているのではなく、人情を創作っているのである。  
 
   
 

                                       昭和59年発行 「芸術人形指向」 小林止良於著より抜粋
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by blog_maya | 2011-01-26 08:17 | 素象人形


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