ブログ HITOGATA   in Otaru       by摩耶

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2009年 09月 18日

師の教え 3   

資料を整理していたら、恩師 小林止良於氏の芸術人形論が掲載された記事をみつけました   
今日は おさらいする気持ちで一部抜粋して紹介させていただきます
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                        人形に問う                      小林止良於 

能楽の伝書である世阿弥の風姿花伝に「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」とあるが、それは観る人に感動を与える花は表面に出すべきではなく、演じる者の心に秘められたところに咲かすべきだと言っているようである。玩具人形や装飾人形より脱して人形に芸術性を求めようとするなら、世阿弥のいう秘すれば花とは人形にも通じる言葉であると思うのである。  能は演じる動作の中に美を表現するのであるが、人形は静止して動かないという大きな違いがある。静止している形であるだけに、なおさらに内蔵された美が要求されるのであろう。それと秘する花とは、真実性であり、自然に、素直に、形の中より滲み出てこなければならない美なのであろう。 

 では、秘められながら表に出る人形の美とはなんなのであろうか。それは形自体が人形という人の姿態を模して表現するものであるから、他の造形よりも必然的に人の情けに重きを置かなければならなくなるのである。要するに秘められた表に出る美とは、人形という形の中に込められた情けなのである。情けとは、情けに伴う自然な姿態であり、姿態よりいでてくる顔の表情なのであって、それは恋情であり、友情であり、親子の情なのである。そこには悲しさがあるからいとおしいのであり、いとおしいから悲しいのである。愛と書いてかなしいとも、いとしいとも解釈出来るところに人形の花が秘められ、芸術としての人形が表現され、観る人に好感を与えるのであろう。

 このように記してくると人形の美とは人情話を形にしたものかと誤解される恐れがあるが、劇的な表現であろうと表現される形はいずれであれ、表現された人形自体の人格が問題なのである。作られた形が幼児であれ、少女であれ、大人であれ、それぞれの姿態の中には人格がなければならない。人形に人格と言うのはおかしいとするなら、気品であり、優雅な奥ゆかしさとでもいうべきであろう。 優れた美を表現するためには、まず優れた技を要求されるのは当然であり、優れた技とは一朝一夕になるものではなく、繰り返しの修練によって得られるのであるが、ただ技の繰り返しによって造りだされるだけでは芸術は許されないのである。常に創造性が伴っていなければならず、個々の人間性によって生じる知と技が個性となり、その魂を人形に移し込むところに人形芸術の所以があるのでなかろうか。
                                          北海道新聞   1986年2月22日 記事一部抜粋

この記事が掲載された時はまだ私は師に出会っていませんでした    内弟子として初めて工房を訪れた時に渡されたと記憶しています   今時期 この記事が出てきたのは「初心忘るべからず」と師が導いてくれているのかもしれません
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by Blog_Maya | 2009-09-18 23:00 | 素象人形 | Trackback | Comments(0)
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